燕−夏の夜−前編
「新しくできた甘味所があるんだよ、一緒に行こうよ燕ちゃん」 「えっと……まだ仕事中だし……」 「そんなの妙さんに任せときなって。なあ一緒に行こうよ〜」 赤ベコの前を掃除している燕に、洋装を着こなした由太郎が付きまとう。 見馴れた赤ベコの前で日常だった。 しつこく燕の廻りをウロウロしながら由太郎が付きまとい、燕が必死にそれを避け、そして… 「……何やってンだよ…由太郎」 「ちっ……出やがったな!」 「弥彦ちゃ…君っ!」 先程まで汗を浮かべて困惑した表情をしていた燕の顔が、弥彦の登場で一瞬で明るくなる。 由太郎はそれが面白くなかった。 「由太郎。今日の道場の掃除当番はお前…」 「はいはい、すぐに戻ってやるよ!。じゃあ、燕ちゃんまたね〜」 そう言うと、軽く燕に手を振りながら神谷道場の方へと歩いて行った。 憮然とした表情でそれを見送る弥彦。 「あ、弥彦君……ありがとう」 由太郎の背中を睨みつけている弥彦に、燕は恐る恐る声をかける。 「別に…。それよりお前もなぁ…もう少しハッキリ言わねェと駄目だろうが」 どうやらぶつける相手を失った弥彦の怒りは、不条理にも燕へとその矛先を向けつつあった。 弥彦の語気にそれを感じた燕は、黙って下を向いて俯いてしまう。 すると続いて何か言いかけた弥彦は、その言葉を飲み込んで黙って燕の頭に手を置く。 そして少し優しい声で呟いた。 「まあ…それができる燕じゃねェよな」 「……弥彦君」 その言葉に顔を上げた燕の前に、やっと普段と変わらない弥彦の笑顔があるのあだった。 そして、ここまでが赤ベコの前での日常。 毎日のように繰り返されてきた事。 しかし、それに変化が訪れようとしていた… 「弥彦のヤロー…毎度毎度…美味しい所で現れやがるぜ」 文句を漏らしながら、一人道場へと戻る由太郎。 しかし、ふと疑問に思ってしまう。自分はいつから燕の事が好きになったのだろうか、と。 最初は弥彦に対する対抗心だったような気がするが、今では本心から燕に惹かれているような気もする。 燕に対する自分の気持ちを、改めて考えながら由太郎は日が傾きかけた街を歩き続けた。 (ふう……今日も弥彦ちゃんに助けられちゃったな……) 毅然とした態度を取れず、状況に流されやすい自分に自己嫌悪しながら、燕は部屋で一人溜息をつく。 「はぁ………」 毎日のように声をかけてくる由太郎、そしてその都度助けてくれる弥彦。 何も変わらない日常。 それは決して居心地の悪いものではなかったが、同じように変わらない弥彦と自分の関係に不満が無い訳ではない。 だがしかし、それは自分自身に原因がある事でもあるのだ。 (やっぱり…私も変わらないと……) 翌日になり、赤ベコでの仕事が始まってからも何やら考えながら溜息を漏らす燕を見て、妙が気を利かせて声をかけた。 「燕ちゃん…何かあったの?」 「あ…いいえ、何でもないですっ!」 不意をついて声をかけられ、慌てて妙へと顔を向けて頭を左右に振る燕。 妙は暫く何やら思案気な顔をした後、燕に一つの事を提案した。 「今日は早めに上がっていいから、花火大会でも見てきたら? 弥彦君でも誘って…」 「そ、そんな…………あ、ありがとうございます…」 慌てて断ろうとした燕だったが、自分を気遣ってくれている妙の表情を見て、申し訳なさそうに頭を下げた。 「いいのよ。燕ちゃんはいつも頑張ってくれてるんだから」 「は、はい…」 (……弥彦ちゃんを誘って…か……。頑張ってみようかな…) いつまでも悩んでいても何の変化も無い。これを良い機会と燕は自分から行動に出てみようと思うのだった。 「あ、あのぅ……弥彦君はいますか?」 着なれない浴衣を身に纏い、神谷道場を覗く燕。 しかし現れたのは弥彦でも薫でも剣心でもなく、たまたま道場に残っていた由太郎だった。 「あれ?燕ちゃんじゃん!何?俺を誘いに来てくれたの?」 弥彦を呼ぶ声を聴いていたはずだったが、あえてそれを無視して由太郎は燕に纏わり付く。 「え、あの、その…」 「そっか。今日は花火大会だったねぇ…よし!、一緒に行こう!」 そう言って由太郎は燕の手を取ると、燕の反応も見ずに歩き出してしまう。 戸惑い困惑しながらも、由太郎の力に引かれて歩き出してしまう燕。 流されていては駄目だと思ってはいても、ハッキリと口に出して断れない自分に嫌悪する。 (まただ……私……) 「そんな嫌そうな顔しないでよ〜。どうせ弥彦のヤローは祭の見回りとかで居ないんだしさ」 自分の心を見透かされたようで、思わずドキリとしてしまう燕。 どうじに由太郎に対して悪いと思ってしまうところが、燕の燕らしい部分であろうか。 「ご、ごめんなさい……」 「いいって、いいって。とにかくさ…花火でも見て楽しもうよ!」 決して由太郎の事が嫌いな訳ではない。 その強引なところも、内気な燕にとっては時には頼もしく見える事もある。 「う、うん…」 花火見物に集まった人ごみが近づいて来る。 「迷子にならないようにね、燕ちゃん」 少しからかった感じの響きでそう言いながら、改めて燕の手を握りなおす由太郎。 「え、あ、うん…」 思わず燕もその手を握り返す。 本当ならその手の先には弥彦が居るはずなのに、そう思いながらも、人ごみを掻き分けて見物しやすい場所へと進む由太郎の背中を頼もしく思う燕だった。 そして、その二人の姿を人ごみの中から見つめる姿があった。 (何で…燕と由太郎の奴が……) 祭に喧嘩は付き物。 それが大きくならないように見回っていた弥彦は、偶然花火大会を見物する為に集まった人ごみの中に、見知った二人の姿を目にした。 そして握られた二人の手も。 押さえようの無い怒りが弥彦の中に込み上げてくる。 しかしそれが燕に対するものなのか、それとも由太郎に対するものなのかは弥彦自身には解らなかった。 堂々と二人に声をかければ良かったのだが、弥彦はそれを躊躇った。 それが何故なのかも解らない。 少し自分自身を情けなく思いながら、弥彦は人ごみを掻き分けて二人の後を追って行った。 「ほら、ここがいいよ…座って」 「うん…」 人ごみを掻き分けて進んだ由太郎は、穴場とも言える少し人気の無い林の端へと燕を伴い、そこに自前の手拭を引いて座らせた。 「もうすぐ始まるぜ…」 そう言われて見上げた夏の夜空に、炸裂音と共に一筋の光が昇っていく。 ドーン……!! パッと大輪の光の花が夏の夜空に華麗に咲く。 「わぁ……」 完全に上を見上げないと見えない程の近くで見る花火は、まるで自分の降り注ぐように散っていく。 「…………綺麗」 次々と打ち上げられる花火を、目を輝かせて見つめる燕。 その光の花に照らされる表情を、弥彦は横から眺めていた。 (やっぱ…可愛いね…燕ちゃんは) 由太郎は燕の横顔を見つめながら、そっと浴衣の肩へと手を伸ばしていった。 <つづく> |